雨宮まみ 突然の死去なぜいきなり?
雨宮まみさんというライターの方がなくなったそうですが、どうにも突然感があり
驚きの声がネット上に響いています。
これは……! すごく好きかもしれない https://t.co/HibDtsdWG2
— 雨宮まみ (@mamiamamiya) 2016年11月14日
この通り3日前までは普通にツイートされてるんですよね。
いつ亡くなったのか?何故亡くなったのか?
いつ亡くなったのか?何故亡くなったのかなどの詳細は不明ですが、突然死にたくなることが度々あったような内容が戦場のガールズ・ライフというブログにわかりにくいですが記載されています。
死にたくなる夜のこと
死にたくなる夜というのが、やってくる。
たいていはそのたびに、薬を飲んで、寝ようとして、
眠れなかったり、でもほかのことでは気を散らすことができなかったり、
朝日がのぼるまでの時間を、苦しいまま過ごすことになる。
「死んでもいいですか?」と、誰かに訊きたくなる。
否定してほしいわけじゃない。死んじゃダメだと言われたいわけじゃない。心配なんか、かけたくない。
でも、その言葉は甘えだと、よくわかっている。死んでもなにも起こらない。
あとに残された人がいろいろ面倒だろうから、申し訳ないだけで。
それでも、この苦しさがあとどれだけ続くのかと思うと、耐えられなくなって、
ベランダからじっと地面を見つめるときがある。冷たい手すりを握って、いつでもこの苦しみと決別しようと思えばできるのだ、と心に言い聞かせる。
死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」
そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。時間が経てば、こんな傷、何も感じなくなるときが来る。
経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているんだろう。
「この先の景色を見たい」という気持ちが、わたしにはない。いつも、ずっと、一度もない。
「この人と一緒の時間を過ごすには、残りの人生は短すぎる」と思ったことは、一度だけある。誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、ひどいものに触れたり、そういうことがあるたびにまた、あの冷たい手すりを握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。
いつも、手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。
そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。
手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。
たまらなくそう思うときがある。感情が、すこし、過多なのだろう。
明日が、強烈な一日であるように。
「これでいいんだ」と思えるような決断ができるように。
引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。
夜が過ぎるのを待つ。
躁鬱の傾向があったのかも知れません。ここじゃないどこかに本当の自分の居場所がある、という感覚がどこかしらなんとなく感じられます。
雨宮まみさんが亡くなったのはいつ?
16日、ではないでしょうか。2日もマスコミが雨宮まみさんの訃報を溜めておくメリットを特に感じません。
商業的に見ても発表を先延ばしにすることで得るものも特に無いと思うので、情報を入手、発表ということを考えると一日足らずかな、と。
誰でも生きてれば何度かは「死にたい」と思うのは実は当たり前のことなのではないか、と思います。
人生なかなか耐え難いほどに重い時というのは誰にでもあるのではないでしょうか。その拍子で、事に及んだ、ということなのかも知れません。
「こじらせ女子」という作品が面白かったので、早めの訃報はやはり残念かな、と。
しかし、人は死ぬべき時に死ぬべくして死ぬのかな、とも同時に思います。